2008年05月05日

何が言いたいのやら私は...

昨年4月16日に米国東部バージニア州のバージニア工科大学校内の寮と教室において、当時23歳の米国在住のチョ・スンヒという韓国人男子学生により学生教員32名(29名が負傷)が射殺される米国史上最悪の銃乱射事件が発生し、その後も同様の事件は後を絶っていませんが、一昨年にも米国東部ペンシルベニア州ランカスター郡パラダイスのキリスト教プロテスタントのメノナイト派から独立したアンマン派であるアーミッシュの村の学校に銃を持った32歳の牛乳運搬トラック運転手、チャールズ・カール・ロバーツという男性が乱入し、11人の児童らを殺傷し、自殺するといった凄惨な事件が起こりました。殺害された少女の一人が容疑者の男性に"私を撃って他の子は解放して"と頼んだとのことが生存者の証言でわかったとのこで...涙を禁じ得ません。以前のアーサー・ペン監督、メアリー・スティーンバージェン主演のサスペンス映画作品「冬の嵐/DEAD OF WINTER」やピーター・ウィアー監督、ハリソン・フォード主演のサスペンス・ロマンス・ドラマ映画作品「刑事ジョン・ブック/目撃者」のテレビ(地上波)放映情報を取り上げています投稿記事の中でも触れていますが、「刑事ジョン・ブック/目撃者」の舞台として印象深い彼の地(といっても事件が発生したその村かはわかりませんが)を、かつて一度だけですが、訪れたことがあるだけに衝撃も一入でした。同容疑者は家族に"20年前に起きたことの報復えをする”などと書いた遺書を残していて、1997年に娘さんが生後間もなく亡くなったことについて、神様への怒りもしたためられていたとのことです。また事件直前に奥さんの携帯電話に連絡を入れ、過去に親戚の少女二人への性的いたずらをしており、再びそれを繰り返したくなったと伝えてもいたとのことです(当該の親戚の女性は彼のこの主張を否定しているとつたえられてもいるようです)。その後事件の詳細に関する報道は余り耳にしなくなってしまった気がしますが、犯人が自殺してしまっているので動機については明かされぬままとなっているようです。
人を殺した人と人を殺しそうな人ですと厳密には個別状況によりけりやにも思いますが、社会、特に周辺者にとっては後者の方がより切実で実感的脅威を感じるということがあることもあるやに思います。しかし、人を殺したと人を殺しそうというのは全く別でもあると思います。被害者の側からすれば加害者がどのような人間であったであろうが、被害の実態には差異が生じるものではないやも知れませんが、一般には殺されるかもしれないというような恐怖に日々苛まれ、おののくのは、個人差はあるにしてもかなり辛く、堪え難いことのようでもあると思います。信頼が欠如すると生きるというか、生活を営み難くなるのは確かなようにも思います。
だからこそ、繰り返されていることでありながらも、表面上なり、意識下に於いてなのやも知れませんが、忘れるということがあるのかも知れませんが...。
正義の意味するところは、明確でないながら、必ずしもそれに基づいて、従って来たかどうかは別にして、そうでない、不正義に見舞われたと思われた状況に於いては往々にして望むもののようです。これはどのような蛮行がまかり通っていた時代でも概ねそのような傾向やに推察します。只、当事者はさておき、表出が顕著か否かやその仕方については、かなり状況に左右されてもいるやに思います。また、その表出の仕方によっては、目的が望んだ正義から別のものへ変容せざるを得なくなってしまうこともこれまた往々にしてあるやに思います。拳を振り上げるよりも、後の処し方が大変で重要だったりするやに思います。それに齟齬が生じた際の解消法に於いても、忘れるということが一番手っ取り早いやに思います。忘れようと思っても忘れられぬこともあれば、忘れてしまっては不都合な、忘れるべきでないことまで忘れてしまうようでもあると思います。思った通りにはいかないとの諦観と自由との幻想の狭間にアンビバレンスを抱えながら生きているのやも知れません。
我々人間は、個人としても性衝動、(暴力・攻撃衝動)、感情、理性と種の保存本能は常に上手くバランスが取れるという風にはなっていない(と映る)やに思います。これにはこれで何らかの意味がある、もしくは意味を見い出すことは出来るやに思います。太古の昔から現在に至るまで多重多様さはありながら社会を形成、保持して来ている事実は、種の保存を脈脈とつづける以上必然であることと、その為に安全性を高める為にしていることやにも思います。その意味からすると我々は出来うる限り少なくとも社会と関連を保持していると意識される部分については意識し、社会的行動を取るべきやに思いますし、形成社会を悪用し必然以上に自己利益(恐らく個の保存)ばかりに依拠、固執することは適当ではないやに思います。社会の不安定化はひいては個人を脅かし、そもそもの意味を失ってしまいもするやに思います。我々個々は弱い存在(ばかりでもないやいは思いますが...)で、社会に身を置いては、公平な存在ではない(公平であることもあるやには思いますが...)やに思います。反対に社会的になる(これは個を打ち消すということと必ずしもイコールではなく、+αと考えられれば良いと思います)ことによって直接その分が自らに反映される可能性は定かではなくとも種の保存なり、利益、(もしくは誰かの個の保存なり、利益)には必ず何らかのかたちで反映されるやに思います。
人は全知全能ではありませんので、現状の社会認識や個々の社会についての認識に依拠せざるを得ないやに思います。そして公のものにならねば憤りを表出しないことが、社会にはあるやにも思います。例えば、いじめについては受けた痛みと結果として起きた自殺(なり悲しく不幸な行為)は、ある意味切り離して考える必要があるやに思います。いじめ自体行為としては、受けた側が受けた痛みを鑑みるまでもなく、適当な行為ではないと、少なくとも生きている限りにおいては、強く意識する必要はあると同時に(悲しく不幸にも)自殺(なり)を遂げてしまた人に対して、非難なぞ出来るようものでもないやに感じます。
そうとばかりではないやに思いますが、特に、(使い勝手の良い代名詞としてなのやも知れずとも)民主主義を標榜している国家・社会においては、少なくとも国家・社会に関わることについては(行動を伴うことの殆どはそうと言って然るべきやにも思います)、(少なくとも建前としては、)読んで字の如く、主要な主体は民衆であることは約束されているはずであり、そうあるべきで、そうあり得、そうであるやに思います。しかし、私にとってもあなたにとってもままならないことやそう思われることは多々あるやに思います。好むと好まざるとに関わらず、民衆とは、私とあなたのみならず、私もあなたも知らない誰かにもよっても構成されていると考えます。その意味では、私もあなたも私もあなたも知らない誰かも相互の信頼(寛容と批判)し合うより仕方がないやに思います。それだけではないやに思いますが、制度で約束・制約されていることは、私にもあなたにも私もあなたも知らないだれかに対してもそうです。元々人は放っておいてもそうするやに思いますが、主体性に基づき、努めてそうすることも必要とされるやに思います。社会のあらゆる事象について、それ以外に何が出来ようかという気がしないやの場合もありますが、自分に置き換えるだけでは、不十分な場合が多々あるのやに思います。

人は、銃だけでなく、不満、恐怖、憤り、欲望、妄執、好奇心、悪意や衝動も持つものであるやに思います...。規制がかけられるとしたら、どちらなのでしょうか...どちらも難しい、無理なのでしょうか...。

競争社会は悪いとはいえないやに思いますが、攻撃社会は嫌です...自然淘汰なる理論を如何に認識するか...。

何だってこんな支離滅裂な戯言を考えて...何が言いたいのやら私は...心が痛んでいるのは確かやも知れません...。

時効事案も含めて未解決事件が一つでも多く早期の解決を見ることを望むものです。
posted by ウォルター at 00:39| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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